[ 日本という国と日本人の心 ]◎「大切にしてきた心」・「合力」・「秩序とマナー」を伝承!
<大切にしてきた心>神話の時代から日本って、すっごくいい国です。
庶民を大御宝(オオミタカラ)とずっと呼んできたんです。
大いなる宝、オオミタカラ。
聖徳太子の時代に十七条の憲法がつくられました。
それは統治をする人々、今でいいますと政治家や官僚たちに向けた訓話ですが、
『和を以て尊しとなす(和らぎをもって尊しとなす)』・・・いさかうことをしてはいけません。
けんか、対立は良くないですよ。
上に立つ人ほど庶民より早く起きて働きなさい、庶民が休んでいるときも夜遅くまで働きなさい、
賄賂はいけません。
それから讒言に耳を傾けてはいけません、一人一人を公平に見てあげなさいと。
「一人一人の民(大御宝)が生きていて良かったと思うような世の中を
つくってあげなさいというようなことを含めて諄々と十七条にわたって書いてあるわけです。
当時は税金のひとつの形が労働の提供でした。
労役の義務を果たすことが税だったわけです。
十七条の憲法では、民は作物をつくって食べているのであるから畑仕事が忙しいときには
労役の義務は課してはいけないと。
冬になって農作業がないときに働かせなさいと。
こういうことまでちゃんと書いてあるわけです。
十七条の憲法から千何百年もしたときに明治維新になりました。
そのときの日本は非力でした。
列強諸国に囲まれ、黒船は日本が見たこともないような大砲を積んでいる。
軍事力においても経済力においても国際法の知識においても私たちは圧倒的に弱く、弱小国でした。
下手をすると、それこそ植民地にされてしまいます。
植民地にされたり、国を滅ぼされないためにどうしたらいいかと、
明治の先人たちは死ぬほど悩んで考えました。
日本人の国を守る力はどこにあるのかと考えてたどり着いたのが五箇条の御誓文でした。
五箇条の御誓文は、『広ク会議ヲ興シ 万機公論ニ決スベシ』から始まります。
これは広く会議を興してみんなで議論して決めなさいと。
そこに庶民も入っています。
身分の上の人も下の人も心を一つにして盛んに政治・経済のあり方、
国のあり方を議論して決めなさいと書いてあるのです。
官僚も軍人も、つまり政府を司っている人から庶民に至るまで心を一つにして
おのおのその志を遂げて、『ああ、こんな人生つまらなかった。
生きていてもしようがなかった』と思わせないようにしなさいと書いてあります。
また、古くなって役に立たなくなった決まり事や制度は捨てなさい、
天地の公道に基づいて政治をしなさいと。
そして、日本だけに凝り固まっていたらだめですよ。
世界に知識を求めましょう、そのような価値観を世界に広げなさいと書いてあります。
この五箇条のご誓文は十七条の憲法と非常に似通ったところがあります。
つまり十七条の憲法は千年以上の間脈々と生きてここに受け継がれてきたということです。
「庶民を大御宝として一人一人が志を遂げることができるような国をつくってあげなさい、
一人一人大事なんです。
あなたは身分が低いかもしれないけれども国が危機にあってはあなたの意見も言いなさい、
みんなで政治・経済を論じて国をつくりなさいという考え方です。
一人一人を大事にする考え方は日本国民だけが対象ではありません。
第1次世界大戦が終わった後の世界秩序をどうつくっていくかという1919年のパリ会議で
日本の全権代表が人種差別撤廃を国際連盟の基本の価値観に入れましょうと
提案したことにつながっています。
その際は世界中が驚きました。
そして反対も強かった。
アメリカのウィルソン大統領が「全会一致でなければこういうことは決められない」
といって拒否します。
日本は激しく抵抗しました。
「今までは全て多数決だった。
なぜこのことだけ全会一致なんだ」と。
人種差別撤廃の提案は多数決では支持されていましたから、日本は粘ったのですが、
一方的に却下されました。
そこで日本は「採決で可決されたということは議事録に残せ」といってそれは残っているんです。
日本の歴史上、日本は庶民を大御宝として大事にしました、身分の高い低い、
金持ちか貧乏かに関係なくみんなが生きる価値がある社会をつくろうという考えが
ずっと日本の歴史に流れていました。
それが第1次世界大戦の後、国際連盟をつくるときのわが国の人種差別撤廃の提言に
つながっていたのです。
こうした歴史を日本人が思い出すことによりまして私たちは
「ああ、われわれの祖先ってすごいんだなあ」・「日本ってすごいんだなあ」と実感できるわけです。
そしてこのようなことをアジアの人々、世界の人々に分かってもらえれば
必ず共感を得ることができます。
ですからこういう日本の歴史を、大きな流れでとらえて、
どんなにすごい国なのかということを学べば、
この先の日本人としての活力のもとになるのではないでしょうか。
<誇るべき日本人の合力>
以前、朝のJR南浦和駅(さいたま市)にて、停車中の電車から降りようとした女性が
足を踏み外し、電車とホームの間に挟まれました。
これを見た車内とホームの客40人が一斉に力を合わせて車両を押し、
隙間をつくって女性を引き上げました。
女性に目立ったケガはありませんでした。
・・・たまたま現場に居合わせた読売新聞記者の撮った写真がニュースとともに海外に伝わり、
各国で日本への称賛の声が広がりました。
「イタリア人だったら眺めるだけだろう」
・「中国で同様の事故が起きれば大多数の人は、やじ馬見物するだけだ」
・「おそらく、日本だけで起こりうること」
・「とっさにこのような行動ができる日本人は、どのような教育を受けているのか」・・・と。
世界的に他人の難儀も見て見ぬふりをする風潮が強いといわれる昨今だけに、
日本人の道徳心をたたえる声は高まるばかりでした。
そこでふと「合力」という言葉を思い出し、この「合力」の精神こそが日本人を、
世界でも傑出した道徳的国民にしているのではないかと思いました。
「力を合わせる」意の漢字熟語といえば多くのかたが「協力」を思い浮かべることでしょうが、
わが国には「協力」よりもずっと古く「合力」という言葉が存在しました。
合力は今では物理の授業で「2つ以上の力を合成した力」などと習う程度で、
小型の辞書もそれくらいの意味しか載せておりませんが、古典の時代にはコウリョクと読ませ、
「力を添えて助ける」意を有しました。
室町時代初期の『義経記(ぎけいき)』にも「三日がうちに浮き橋を組んで、
江戸太郎に合力す」と出てきます。
源頼朝が隅田川を渡ろうと江戸太郎(重長)に浮き橋を組ませた折、
葛西三郎こと葛西清重が合力した、つまり助勢したというのです。
また、「施し与える」という捉え方にて、災害に際しては合力金・合力米として金品を贈り、
困窮者への援助としました。
「力を添えて助ける」・「施し与える」わが国における合力のこの2つの意味は、
いわば見返りを求めぬ人助けの要諦でもあり、それを実践したのが冒頭の救出劇となります。
力を貸した人たちはきっと、女性の無事を見届けるや何もなかったかのように現場を後にしたに違いなく、彼らは力を貸して、いや与えて、そして去った。
明治期に大森貝塚を発見した米人モースは、江ノ島で過ごした経験を次のように書き留めています。
「人力車夫や漁師達は手助けの手をよろこんで貸すというよりも、いくらでも与える。
」近代日本の庶民に合力の精神が広く浸透していたことがうかがい知れます。
大正12年の関東大震災でもこの精神は発揮されました。
東京帝大の学生さんは、大学構内や上野公園に避難した人たちのために食糧を調達したり、
散乱状態を清掃したりと活躍されました。
現代のボランティア活動につながる合力です。
戦後の日本では、個を尊重するあまり他を思うことが忘れられがちとなりましたが、
先の東日本大震災では、日本人は決して合力の精神を失ってはいないと確信致しました。
窮状のなかでも被災者は礼節と品位を保ち、奪い合うことなく分け合い、与え合った。
外国人にはこれが奇跡に思えました。
日本人がこのような徳を身につけることができたのも、わが国が災害列島だからかもしれません。
日本人は自然災害で多くの犠牲を払ってきましたが、同時に、災害を乗り越えて生きるために助け合い、与え合う合力の精神を養ってきました。
日常的には「相身互い」とか「向こう三軒両隣」、ときには「絆」と呼ばれたりもする
情義とも相通ずる徳性といえます。
「東京の下町では、となり近所が助け合い、互いの不足をおぎない合うことも当然でした。
」は、関東大震災の年に生まれた作家池波正太郎さんの言葉です。
日本人は合力して生きてきました。
災害発生の日を振り返る日でもありますます防災の日は、改めまして日本人の美風を思い起こし、
今後ともそれを誇りとしていきたいものです。
<秩序とマナーに感銘>アラブ諸国で最も若い33歳で国家元首になったカタールの
タミム首長のモットーは「日本に学べ」です。
「どこか好きな国を見ては?」と、首長が皇太子になったとき、こう勧められ、
はじめに選んだ国が中国でした。
その際、目にした光景は、「地下鉄に人々はわれさきに突き進む。
子供がゴミを街中にぽんぽんと捨てる。
」落胆と幻滅を強めたことは想像に難くありません。
次に足を運んだのが日本でした。
新幹線に整然と乗り込む乗客たち。
ゴミ一つない東京ディズニーランド。
いかに鮮烈な印象でしたかを首長は、カタールを訪れた日本国首相に披露されました。
首相は記者会見で、「我が国に暮らすかたがたの秩序とマナーの素晴らしさに、改めて深い感銘を受けました」と述べられました。
首長が公式実務訪問賓客として来日された際には、
天皇陛下へ「カタールの教育に日本式を取り入れたい。
日本の教育を尊敬してます。」と話されました。
この言葉の通り、首相訪問時の両国共同声明には
「首都ドーハの日本人学校がカタールの子供たちを受け入れ、将来的な拡大を歓迎する。
」とうたわれました。
カタールだけではなく、サウジアラビアなども日本に熱い眼差(まなざ)しを向けています。
きっかけはアラビア語衛星テレビが日本を特集したことです。
衝撃を与えたのは、日本の小学校で児童が机を雑巾がけするなど、教室を自ら清掃している姿でした。
サウジでの学校清掃は、メイドさんら外国人労働者が担い、児童は関与しません。
それと逆の姿をテレビで見たサウジの教育相は心に思うことがあったのでしょう。
翌年、ジッダの2校で児童清掃を指示し、なんと今では1,200校に増えています。
それはなぜか。
児童たちが身につけた清掃習慣が家庭に持ち込まれ、子供たちが家の中を進んで
片付け始めたからです。
また、学校が清潔になり、病気にかかるケースが減っています。
「一石三鳥」が歓迎されないわけがありません。
このテレビ局はその後、重ねて日本を紹介しました。
サッカー観戦する日本人が徹夜で行列せず、氏名などを記したペットボトルを置いて順番待ちしている。
「割り込みはなし」とのコメントに続き、取り上げられたのは、
第二次世界大戦の悲惨な状況下でも学校教育が行われていたことで、
日本人の道徳規範への探究心をみせていました。
学校教育について、立命館大学フェローの加地伸行氏は、
「敗戦のとき、旧満州からの引き揚げ者は、集結しては移動するまでの間、
現・元教員たちが子どもに授業したという。
日本人の凄味(すごみ)である。
」との一文を寄せています。
「勤勉・責任感・誠実・公共心」・・・。
日本人の精神力が、中東の人たちの心をとらえて離しません。
2020年東京五輪を決めた国際オリンピック委員会(IOC)総会には
IOC委員のタミム首長が参加されました。
決定後、首長は日本国首相に駆け寄り、お祝いを述べ、力強く握手されました。
日本人の心が、感動と希望を引き寄せたに違いありません。
・・・日本人として、「大切にしてきた心」・「合力」・「秩序とマナー」をいついつまでも伝承です!
コメントを残す